戸惑いながら拝んで欲しい

小泉首相の靖国神社参拝が違憲であるとの判決が出た。私も違憲だと思う。
 
 違憲であるとか、アジアとの関係やA級戦犯が合祀されているなどといった問題とは別に、公人の靖国参拝の話が出るたびに思うのだが、ソコで祀われている人は、すべての人が祀われることを望んでいるだろうか。

 少なくとも私は、死後、自分の知らないところで神様にされて誰かに拝まれたりすることは身震いするほど嫌だ。
 私を知る人の中で、私とのつながりを大事に思ってくれているごく少数の人の心の中だけで存在することを望む。彼らが死んだと同時に彼らの脳細胞が活動を止めた時、そのとき私はこの世からいなくなる。そうありたい。

 考えてみれば、今神様として祀られている人、祀られている物の中で、
 「私、神様になってもいいよ。」
と言った人はいないのではないか。
 
 菅原道真なんか、失意の中で死んだとされているが、知らない間に天神様にされてしまって、目の前で梅が枝餅なんか売られている上に、縁もゆかりもない子の受験の心配をさせられている。受からなかったら霊験がないことになってしまう。
 彼にとってうれしいことかどうかはわからない。

 私なら、
 「そんなこと知るか!」
という話である。

  白い蛇だって、たまたま色素が少ない体質に生まれたばっかりに、神様にされてはよろず相談事を引き受けている。

  生きている人間は強欲であるし、鈍感である。当人の嫌がることをしといては祀り、さらに死後は自分の心の安寧のために祀るのである。

 石ころや水や木だって、別に人間に利用されたくてそこに在るわけでもないのに、利用された後神様にしてされて、さらに利用される。しかし文句は言わない。

 生きている人間にとって、何かを拝むことが必要であるとも思う。それは謙虚であるためである。しかし拝まれるほうにとって、それは知ったことではないのだ。

 対象が何であれ、神様として祀り、拝むときに、ある種の後ろめたさがあったほうがいいと思う。拝まれることがうれしい人ばかりではない。

 小泉さんの言動にはそのような後ろめたさが感じられない。


 

 
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by mayumi-senba | 2004-04-08 12:58 | 世間のこと
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