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差別について、思うこと。

もし5人集まれば・・

yujingさんが、この記事をよんで、「レイシズムではないか」という指摘をされた。

 私は、差別という言葉は差別を無くす方向に進むのに有効な時だけに使いたいと思っている。
 差別という言葉については、普段、etsuさんとほぼ同じ意味合いで使っているが、今回は少しはずしてみる。

 この「五人集まれば・・・。」
という話であるが、さまざまな国の事情や文化的な相違を相対化して、それらに優劣の判断を加えていない。
 「みんな違ってみんなおもしろい。」
という文脈で私は読んだ。

 人は決め付けや思い込みから自由になることはできない。赤を暖色、青を寒色と感じるように。人が生物である限り、決め付けや思い込みをするようにプログラムされている。脳は省エネなのだ。省エネゆえに熟練があり、省エネゆえに思い込みもある。

 で、差別を減らすためには、その思い込みを修正していく作業そのものから多くのことを学ぶことになるが、一方、その決め付けた性質、形質そのものは差別して疎外することに値するものかどうか、という問い直しはもっと大切ではないかと思うのだ。

 クーデターを企てることは絶対悪か?友達に会えないほど忙しいことは絶対善か?

 思い込みを修正するほうがたやすい。自分の価値観を揺るがさずにすむからだ。

 「体が小さいから臆病だと思っていたら、付き合ってみるとそうではなかった。」
というような経験は、積み重ねていくと、
 「集団としての傾向と個人のその性質の多寡は別の物である。」
ということを知るようになる。そして、思い込みと、思い込みにとらわれないことを使い分けながら生きていくことになる。

 しかし、
 「思い込みどおり臆病だったが、しかしそれはいけないことか?」
という問いを立てることが、決め付けを排除することと同時に、またそれ以上に必要であると思う。「臆病でなくならない限り、差別されて当然」という、謂れある差別がそこにあるからだ。

 「謂れなき差別」がこの世にあるのである。「謂れある差別」はもっと「ありやすい」にちがいない。

 差別という言葉を用いた瞬間に、別の差別を生んでいることもある、と私は思う。
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by mayumi-senba | 2005-01-04 01:37 | 世間のこと
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