役に立つ才能について

 知的障害者のSさん、彼女のそばにいると、心地がいい。癒される。

 確かにそうなんだけど、そのとき、私の中に芽生える、私自身に対する不快な疑念を押さえることができなかった。

 彼女は私より知的な能力が大いに劣る。私は彼女に劣等感を抱く必要がない。
 私自身の深いところに、もしかしたら、そういったいやらしい安心感があるのではないか、という疑念である。
 
 それと、では、彼女は人を癒す事が出来るから存在が許されるということになるのか?ということである。

 しかし、付き合いが長くなるにつけ、そうではないことが分かってきた。

 彼女は嘘をつけない。言い換えれば、嘘をつかない才能がある。
 彼女は人を傷つけることを言わない。もし言ったとしても、彼女に言われると傷つかない。人を傷つけない才能がある。

 私たちは言葉を自由自在に操っているつもりでいるが、実は言葉に引きずられているというところがある。言葉を用いて、人だけでなく自分自身をも欺く。

 ながく付き合うと、自分の中に彼女に対する蔑視がまったくないことが分かってきた。
彼女が好きなんだ。

 奇麗事に聞こえるだろうか。聞こえてもいいけど。

 知的障害のある子どもを持つ親御さんが言った。
 「僕たちのところに来てくれてありがとう。ここにいてくれてありがとう。そういう気分なんだ。」

 もちろん彼等もはじめからそう思ったのではない。葛藤も、苦しみもあったに違いない。だからこそ私にはこの言葉が、うそ臭く聞こえることがあったのだ。自分を欺くために必要なのではないかと。

 でもそうではない。彼女には、人を幸せな気分にさせる才能がある、と私は思う。
 あの親御さんの言葉は真実なのだと感じる。

 それから、もうひとつわかったことは、私は、私の浅はかな価値観で、ある人を「役に立たない人」、という評価を下しているのかもしれないということ。私がその能力を見つけていないだけかもしれないのだということ。

 さらに言えば、まったく役に立たない人は、役に立たないことで役に立っているのだということである。

 こうやって「役に立つ」という言葉を使ってくると、いかにいやらしいニュアンスを持つ言葉であるかということが実感される。
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by mayumi-senba | 2004-06-23 00:47 | 世間のこと
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