死刑について

 私は、光市母子殺人事件の判決が死刑であることに強い危機感を感じる。

  このような書き方は誤解を与えるので、やはり言い換えたほうがいい。

  国家に殺人を犯すことを許し続けることに対して、危機感を覚える。

  なぜなら私は知っている。政治家も官僚も司法を担当する人々も私たちと同じ人間であって、立派な人もそうでない人もいるし、また立派な人がいつも立派で正しい判断をしつづけることがいかに困難であるか、ということを。

 そして、立派な人がある組織に属したときに、その人の自覚の範囲で「立派であること」、「正しいこと」の基準がいかに簡単に変わってしまうかということも知っている。

 だから、統治機構としての国家を構成する人たちにすべてについて完璧を求めてはいけない。完璧を期さないといけない事柄のひとつが、合法的に人を殺すことである。正当防衛ならば仕方がないかもしれない。しかしすでに逮捕され、攻撃能力を剥奪された人間に対して、合法的に殺人を実行することには手続きが完璧であることが必要である。

 完璧であるということは、殺意の有無や事実認定に対する完璧さだけではない。この人間を生かし続けることよりも、殺してしまうほうが社会のためになる、ということにまったく疑問がないことが明らかになる必要があるのではないか。

 今まで多くの失政によって、多くの人たちが経済的な困難に陥り、自殺者は減る気配を見せない。また、防げるはずであった感染症によって命を失った人も大勢いる。
 私は、その責任の所在を明らかにする必要は感じるが、その責任者を死刑にすることは社会を健全にするとは思えない。人は失敗をするものなので、そして失敗は少なくする努力が必要だが、失敗すると殺されるような仕事につきたいと思うものは、あまりいない。それでもそんな仕事につこうとする人は、人の命を粗末にすることに躊躇は少ないだろう。これは経験が教えることである。人は自分が耐えられることは他人も耐えられると思いやすい。

 訴訟されても負けないかもしれないけれど、訴訟されるという恐れだけで、死にいたる可能性の高い病気の診療から遠ざかりたい医療職は少なくない。かくいう私だって嫌だ。事情が許せば逃げたいところである。

 注意していれば避けられた失敗と意図して行うことの境界は、子どもたちや頭の構造が単純にできている人たちが思うほど明瞭ではない。もっといえば、われわれ大人が、幼い子どもが行った事に対する評価も、実は当の大人たちが思っているほど簡単なことではない。子どもには、かくかく云々と申し述べる能力がないだけである。

 だから、たとえば役人の失政のおかげで大勢の人が死んだからといって、彼らを死刑にするのには反対である。そしてそれは実現している。

 そんな国家に殺人を行使すること許すことには、危機感を感じるのである。自分の身が安全であれば、正義の名の下に粗雑な判断力で物事を実行する人間は一定の割合で必ずいる。それに多くの人が巻き込まれて大きなうねりとなり悲劇は繰り返されてきたのである。

 行政と司法をあえていっしょにしている。
 今まで冤罪事件として明らかになった事件の中には、あえて罪をでっち上げたと思われるようなことがあったが、そしてそのことが被告だけでなく周囲の人を失意に落としこみ、自殺にいたった例もあるが、冤罪を構成した人は殺人罪や過失致死で告訴されることはないのである。

 それがもし行われるならば、殺伐とした行政と司法により、殺伐とした社会が到来する。冤罪が構成された経過をまず明らかすることのほうが、よほど重要なことと思う。

 殺人についても、虚偽を述べることまで含めて事件についてある意味最大の「証人」となりうる被告人を殺すことは、真実の解明に資することはない。

 狂牛病がわが国に発生したときに、ある専門家が述べた言葉が印象に残っている。

 「発病した牛を殺してしまったのは、愚かなことである。今のわれわれのレベルでは、病原体が同定できていなくても、この病気に関しては今までの経過から安全に隔離することは今の日本には十分可能である。隔離して研究ができれば多くのことがわかったであろうが、その芽をつぶしてしまった。」

 私は深くうなづいた。地震多発国で原発を維持するよりははるかにリスクは低いだろう。

 ナイーブな言いまわしかもしれないが、真実の解明だけが、社会を健全な方向に少しずつだが方向付けることができるのである。国家とは、隠し続けて墓場まで持っていったほうがよい秘密というものがありうる「夫婦」のような閉じた関係ではないのである。時間がかかっても、明らかになるべきことは明らかにならないと、そのひずみを打ち消す「終わり」は来ない。

 被害者の人たちに対する世間の仕打ち、また遺族の応報感情、喪失感については、これはこれで議論し救済の仕方を最大限考えなければならない。報復することを社会のために我慢してもらうのであるから。死刑はよくないとかんがえる者は、それ以上のエネルギーを、被害者、遺族の救済に裂くべきなのだと思う。

 私ひとりりが考えてもたいしたことにはならないが、私は死刑については反対するものであり、被害者、遺族の方々が死刑以外の方法でどうすればもっとも救われるか考えなければならない。

 そして私や私の親しい人たちもいつその立場になるかもしれないし、もっといえば、何かで国家から死刑に処するべき人間であると断じられる可能性は無くはないのである。

 

 
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by mayumi-senba | 2008-04-24 22:44 | 世間のこと
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