生きる意味

  人は何のために生きているのか。

  この問いに答えが出せなくて苦しい思いをしたという話を聞く。この間、そんな話を聞く機会が続いた。知人とテレビの画面からであった。

  私は忘れてしまったのだろうか。

  彼らが苦しんだという時期に、確か私は大いに迷っていた。
 
  どの線で生きていこうか。
  若くてバカだから、選べると思っていたのだ。

  人の後についていこうか、自分が先に歩こうか。
  いわゆる女性らしく、というのは無理だとさすがにわかっていたので、ややこしくて申し訳ないが、性同一性障害でもないのに、男らしさにぎりぎりまで近づいてみようか、それとも、なよなよしないけどあくまでも女らしく行こうか。・・・・なよなよは無理なのだ。

 それは切実に大切な案件だった。

 着るもの、持つもの、ふるまいが変わるわけだから、そしてもちろん物事を考えるときの傾向が変わってくる。

 ところが、そんな迷いを迷いながら生きているうちに何となく今のようになった。着るもの、持つもの、ふるまい、考え方、何を忘れて何を覚えているか、物事に対処する仕方。すべて自分らしいと自分で思う。

 で、そうなるまでに大切な場面で決断をしてきたのだろうけれども、本当に自分で選んできたのかと問われると自信がなくなる。

 私の中には父と祖母が常にいる。鮮明な形で。

 今となっては、これまで考えてきたことや判断を自分でしたような気がしなくなっている。

 彼らは、思い起こすと涙が出るほど私をかわいがり、大事にしてくれた。祖母などは、進学のため家を出た私が電話をするとそのつど涙を流していた。

  私は、
 「死ぬに死ねないな」、
 とその時思った。それどころか
 「不幸もいかんな。」
と思った。

  そうはいってもつらいことがないわけではなかったが、その時はいつも、祖母と父が大事にしているものは大事にしないといけない、と思った。すなわち自分である。

 私は、生きる意味を考えたことがない。

 むしろいかに死ぬか、ということの方が大きなテーマである。

 これもおろかな問いである。死は、自殺を除けは、時期も死因も選ぶことができない。

 実はこの6月末に母が逝った。

 私は、母とは縁の薄い娘で、お互いにわかりにくい親子であったので、母が哀れで涙が出たが、決して母を失ったという涙ではなかった。

 それよりは、はるかに利己的だと思うが、帰るべきところがなくなったという喪失感にうろたえた。もはや自分には帰るところがないのだ。根っこがなくなった感じ。

 そう思うと、息子が根っこが消えることに耐えられる年齢になるまで元気で生きていなければならないような気がした。具体的に援助するということではなく、今度は間違いなく私が息子の根っこになる。

  ところが、私は、嬉しいことがあるとすぐに思うのだ。

 「ああ、これで死んでもいい理由がまた一つ増えた・・。」

 死んでもいい理由をため込んでいってる。

 死ぬべき時が来たら、「もう死んでもいい理由がたくさんあるから、死ぬよ。」
と言って死にたい。

  生きる意味、という問いは、ついに私は立てることがなかった。
 
[PR]
by mayumi-senba | 2009-08-19 22:57 | 自分のこと
<< 道楽 最高裁って・・・・ >>