道楽

  昨日は、知人との食事のために街に出た。
  少し早く着いたため、少しだけ、と思って古くからある器の店に寄った。

  「買わないぞ。」
と思っていたのに、大ぶりで丸みのあるタンブラーを2客買ってしまった。そのタンブラーに注がれたワインやブランデー、焼酎や冷たい麦茶までが次々に私の頭に浮かんでくるのだ。そして口付けた感触や味まで浮かぶ。

  日常使うにはあまりに薄く、おそらくめったに使わないだろう。もしかしたら、一生使わないかもしれない。

  なぜなら、我が家にはそんな器が大きな食器棚3棹にぎゅうぎゅう詰めになっているほか、サイドボードにはグラスや茶器が、これもぎゅうぎゅう詰めになっている。はみ出したものは2階の押しいれにある。書いていてわれながらあきれる。

 しかしまた買ってしまった。occupied japanのコーヒーカップも目について、コーヒーを入れたところが頭に浮かんだが、さすがに我慢した。グラスを買っておいて、コーヒーカップを我慢したと自分で自分を褒めている。

 私が選んだものは、すべて、どうしても頭の中で料理を盛られているので、そのものだけで見たらもしかしたらつまらないかもしれない。そのように盛られる料理や飲み物を頭に描いて買った器でも、実際に料理を盛られることはあまりないのだ。

 時々出してみては、頭の中で料理を盛る。

 道楽というものだろう。

 母が今の私の年齢のころ、この人はモノを捨てるのが趣味なのかと思うほど、熱心にいろんなものを捨てていた。

 いま、私はその母の気持がよくわかる。一生使わないに違いないと思われるものを、身近に置いておきたくない。少しずつ見切りをつけて、捨てたり人に使ってもらったりしている。

 そして、欲しいものがない。  食器以外は。

 着るものも、履くものも、ずいぶん前に買って今なお手元にあるもので十分だし、もともと私は流行に頓着がないのたいていのものは今も着ることも履くこともできる。

  今こんなことを書くと、非国民と呼ばれそうだが、たまにデパートに行っても、欲しいものがなく、買うものがない。結局散歩をして、地下で食料品を買うだけということになる。

 それよりは、不要のものを処分することに快感がある。食器以外は。

 私は、これと同じことが脳にも起こっているような気がする。いや、脳に起こっているからこそ、それに相似した行いに快感があるような気がするのだ。

 (そう思うだけですからね。医者がそう書いたからって、それが危険率5%で証明されているなんて思わないでね。)

 脳は、年を経るごとに、得意なことをさらに得意にし、不得手なものはさらに不得手にする。不得手な部分はつかわないから、回路がなくなっていくのだ。

 書いているうちにこの先を書くのが怖くなってきた。
 
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by mayumi-senba | 2009-08-21 03:13 | 自分のこと
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