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おばあちゃんが死んで・・・。

 「おばあちゃんが死んだ。」
という知らせを受けたとき、私は、祖母の死よりも自分自身のそのときの状態に強い違和感を感じていた。

 新幹線の中でも、通夜に間に合って、忙しそうにしているもの、泣いているもの、のんびり談笑するものなど、大勢の人の中に混じっているときも、私は、自分自身に対する違和感をもてあましていた。

 なぜ悲しくないんだろう。あれほど私を可愛がってくれた祖母が死んで、もう、笑うことも、ものを言うこともなくなったのに、なぜ私は悲しくなくて、涙も出ないんだろう。

 葬式当日になって、棺桶の中の祖母の血色のない顔を見ても、私は自分でもわかるほど冷たい目で祖母を見ていて、

 「こんなときは可愛がってもらった孫は泣くのが普通なんじゃないのか。涙が出ない私は変じゃないか。」
という思いに、むしろ「苛まれていた」といってよい。

 火葬場についても、まだ私はこの違和感と格闘していた。

 そこでは、まだ一人一人数珠を持って手を合わせたり、線香を供えたり、といった儀式があって、そのころには、私はもう、

 「私は、自分がいくら可愛がってもらっても、この程度にしかその人の死を悲しめない冷たい人間なんだ。そういう人間なんだ。だから、そういう人間であるということを自覚して生きて行こう。」
と考えるようになっていた。そう自覚したからどう生きるか、ということはもちろんわからないまま。

 祖母のお棺がいよいよ火葬場の釜の中に入れられ、炎に包まれた姿を目にした後に、その扉が閉められた。

 そのとき、私の心の中に嵐のような猛烈な怒りが湧き起こった。

 「誰が私のおばあちゃんを焼くねん!!そんなこと誰がせえゆうたんや!!おばあちゃんが焼けてしまう。おばあちゃんが焼けてしまうー!!」

 胸は確かに張り裂けそうだった。怒りなのか悲しみなのか、極限ではわからないものなのだ。そして、どっちでもいいのだ。

 実は、今も私はこのときのことを思い出すと、平静ではいられない。
 愛する人が死ぬというのは、私にとってはこういうことなのだと、思い知らされた。

 そして、泣き疲れた後、もうその日のうちに、祖母は甦った。そして、
 「これからは、いっつもそばにおるよ。眞弓が幸せに生きていけるように、守ってやるよ。」
と言った。祖母が死んで、その翌日には、私は、祖母の生前よりさらに幸せな気分になっていたのだ。

 しかし、祖母は、それでいいのだと思っているに違いないと、私は思っている。人間はどこまでも自分勝手になれるものだ。
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by mayumi-senba | 2004-06-30 19:11 | 自分のこと

「男と女は友達でいられないのかなー。」の続き

「男と女は友達でいられないのかなー。」

人間の脳は、子孫を残すことに役立つ方向性を持つ行為に対し、報酬システムによって「喜び」「幸福感」というようなご褒美を自分自身にに与える。

 異性に魅かれ、異性に自分を受け入れさせるべく努力をする。受け入れられたときに、大きな喜びを得る。そばにいることに喜びを感じることも、生殖行為につながりやすくさせる要因である。

 かたや、自分の子どもの、子どもらしい容貌やしぐさに抗いがたく愛着を感じ、子どものそばにいて、保護を与えずにはいられない。そのことが、子どもの生存を保証することになる。

 この二つがもたらす幸福感は、ともに、報酬システムによるとされている。

 では、同性の友人に感じる愛着はどうなのだろう。

 私には、異性に対する愛着と区別がつきにくい。
 同性であるので、生殖行為には結びつかないけれど、それ以外のところで、さほど差のあるものなのだろうか。

 同じ空間で同じ時を過ごしたいという衝動が確かにある。それは衝動としか言いようがなく、その点においては、性的な衝動や、子どもを思わず抱きしめたくなる衝動と違わない。

 
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by mayumi-senba | 2004-06-28 22:59 | 疑問のまま

コーヒーは愛の香り

 もう十年も前のこと。

 丸の内で会議があり、その帰りに同僚が、
 「浜松町でシャンソンのコンサートがあるから寄っていかないか。」
ということになり、彼女がチケットを持っていたのを譲ってもらって同伴した。

 日本の主なシャンソン歌手が総出演するお祭りのようなコンサートで、人に付き添われながらステージに立った淡谷のり子さんの恋の歌は、やはり現役の歌だった。
 それからしばらくして、彼女がステージに立つことがなくなったと聞いている。

 そんな中に、宇野ゆう子さんがいて、[サザエさん]を歌った。とっても驚いたけど、そのときにもう一曲歌った歌が心にしみて、会場でCDを買って帰った。

 それがこの一枚である。

 いきなり一曲目から、ドンナ・コン・テで掴まれてしまう。

コーヒーは愛の香り
 宇野ゆう子

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by mayumi-senba | 2004-06-27 13:52 | リンクなど

「男と女は友達でいられないのかなー。」

 
 コンビニの中で、若い女の子の二人組みが、無防備な様子で言った。もしかしたら高校生くらいかな。
 
 そんなことが大問題であった時期が、そういえば私にもあったな。

 男と女の「友達」が市民権を得ているからこそ出る疑問であろう。私の母のころには、有得ない言葉だったに違いない。少なくとも母の中には、ない。

 男同士、女同士、の友達関係の中に、恋愛感情がまったくない、と私には思えない。もちろん、同性愛者ではない人たちについてである。

 逆に恋愛関係にある男女の間に、異性として惹かれる以外のところで、魅力的に見えるところがないだろうか。
 
 ならばどこからが恋愛でどこからが友達であるか、というのは、明確に区別できないのではないか、と私は思うのだ。

 わたしにとって、単なる知人、と思っている男と、友人だと思っている男たちの間にある差は、かすかな恋愛感情のような気がする。

 

 
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by mayumi-senba | 2004-06-26 08:43 | 世間のこと

役に立つ才能について

 知的障害者のSさん、彼女のそばにいると、心地がいい。癒される。

 確かにそうなんだけど、そのとき、私の中に芽生える、私自身に対する不快な疑念を押さえることができなかった。

 彼女は私より知的な能力が大いに劣る。私は彼女に劣等感を抱く必要がない。
 私自身の深いところに、もしかしたら、そういったいやらしい安心感があるのではないか、という疑念である。
 
 それと、では、彼女は人を癒す事が出来るから存在が許されるということになるのか?ということである。

 しかし、付き合いが長くなるにつけ、そうではないことが分かってきた。

 彼女は嘘をつけない。言い換えれば、嘘をつかない才能がある。
 彼女は人を傷つけることを言わない。もし言ったとしても、彼女に言われると傷つかない。人を傷つけない才能がある。

 私たちは言葉を自由自在に操っているつもりでいるが、実は言葉に引きずられているというところがある。言葉を用いて、人だけでなく自分自身をも欺く。

 ながく付き合うと、自分の中に彼女に対する蔑視がまったくないことが分かってきた。
彼女が好きなんだ。

 奇麗事に聞こえるだろうか。聞こえてもいいけど。

 知的障害のある子どもを持つ親御さんが言った。
 「僕たちのところに来てくれてありがとう。ここにいてくれてありがとう。そういう気分なんだ。」

 もちろん彼等もはじめからそう思ったのではない。葛藤も、苦しみもあったに違いない。だからこそ私にはこの言葉が、うそ臭く聞こえることがあったのだ。自分を欺くために必要なのではないかと。

 でもそうではない。彼女には、人を幸せな気分にさせる才能がある、と私は思う。
 あの親御さんの言葉は真実なのだと感じる。

 それから、もうひとつわかったことは、私は、私の浅はかな価値観で、ある人を「役に立たない人」、という評価を下しているのかもしれないということ。私がその能力を見つけていないだけかもしれないのだということ。

 さらに言えば、まったく役に立たない人は、役に立たないことで役に立っているのだということである。

 こうやって「役に立つ」という言葉を使ってくると、いかにいやらしいニュアンスを持つ言葉であるかということが実感される。
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by mayumi-senba | 2004-06-23 00:47 | 世間のこと

使えぬ形容詞

使いたくなるものもありますね。

ココ
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by mayumi-senba | 2004-06-21 22:50 | リンクなど

台風接近、本日休講

本日、台風接近のため、休講との連絡あり。

ということで私は今日 オフということになりました。

このウキウキ気分は何でしょう。うれしいな。

講義をするのも好きなんだけど。
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by mayumi-senba | 2004-06-21 09:18 | 自分のこと

アメリカンジョーク

雑記3

 こういうの、好きです。日曜日の午後にぴったり。
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by mayumi-senba | 2004-06-20 13:22 | リンクなど

幽霊が怖くなくなったとき

a0011256_164917.jpg 宣言するのではないけれど、私は幽霊やお化けが怖くない。

 子どものころは私も人並みに怖かった。四谷怪談を見た夜は、トイレに一人でいけない、普通に怖がりな子だった。

 祖母が死んで、その翌年に祖父が死んだとき、突然怖いものがなくなった。
 それは幽霊やお化けがいないからではない。
 いてもいなくてもいい。

 もしいたとして、あのおじいちゃんやおばあちゃんが、私の顔を見たくて出てくることはあっても、脅かしに来るはずはない。おじいちゃんたちのそのまたおじいちゃんやおばあちゃんたちもまた然り。

 あかの他人の幽霊が私を脅かしにきたとしても、あのおじいちゃんやおばあちゃんが黙ってみているはずがない。
 「あんた、ええ加減にしいや。うちの孫を脅してどないすんねん?ええか、まあ聞きや。」
とその幽霊を諭しに来るであろう。

 幽霊ではなく、妖怪であって、もちろん人間の私にはかなわない相手であっても、孫かわいさの一念が強い霊力となっているに違いない二人が、
 「いらん。」
といっても私を護りに来てくれるであろう。力が足りなかったら、そのまたじいさんやばあさんが馳せ参じるであろう。

 そう思うようになってから、幽霊やお化けが怖くなくなった。

 存在しようとするまいと、私には問題ではないのである。
 怖くないから。

松坂屋美術館  葛飾北斎

幽霊画コレクション


この場合、どっちでもいいなら、「存在する」と考えたほうが私は楽しいのでそう思うことにしている。
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by mayumi-senba | 2004-06-19 16:10 | 自分のこと

私が心配することはないが・・・

 こんなに大騒ぎされたら、雅子さんは今度どんな顔をして出てくればいいんだろう。

 やはり私たちは、特定の人に、本人の意思に無頓着に、とてつもない負担を強いている。この負担は、誰にとって必要なことなんだろう。
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by mayumi-senba | 2004-06-19 00:16 | 世間のこと