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そう単純に「脳死は人の死」ではない・・・・・・らしい。

ちょっと待ってください。

そう単純に「脳死は人の死」ではない

 
 河野・福島案では本人が生前に脳死を人の死と認めていない場合や家族が脳死を死と認めない場合には、「法的脳死判定」を拒否することができるようにした。
脳死状態であっても、「法的脳死判定」が行われない以上、脳死にはならない。だから、脳死を人の死と考えない人は「脳死」にはならないことになる。
河野・福島案では、「法的脳死判定」に同意し、脳死と判定されれば、その人は「死んでいる」。だから、脳死になった者の身体から心臓を摘出しても殺人になることはない。
「法的脳死判定」が行われ、脳死と判定された者は、その者が臓器提供をしようとしまいと「死んでいる」。
 「ごまめの歯ぎしり」より引用

 法的脳死判定を拒否できるのは本人か家族、ということであって、どちらも同意しないと脳死判定そのものが行われない、ということになる。

 同じ状態であっても、ある人にとっは死、ある人にとってはそうではない、という状態が起こりうる。家族の同意さえ得られれば、当事者が自分の死をえらぶことができることになる。もちろん事前に、ということになるが。

 コレもペンディング。
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by mayumi-senba | 2005-05-25 23:30 | 世間のこと

あまりにも実存的な・・・

二十歳前後のころ、自分はどういう生き方をすればいいのかと、悩んでいたことがある。

 たとえば、異性に対してどういうスタンスで生きていくのか。
 同性に対してはどうか。
 目上の人や、自分より強い立場の人に対してはどうか。
 年下や自分より弱い立場の人に対してはどうか。

 対象との関係でもってじぶんを創りあげようともがいていた。

 そんなある日、失恋をして落ち込んでいた年上の友人が、○○○○教の教会に通い始めた。
 とにかく救われたい一心だったらしい。

 何度か通った後、彼女はすっきりした顔でこういった。

 「もう教会には行かない。私の給料の10分の1を取り上げようとする。私みたいな安月給のハイミスから、そんなに取り上げようとするのは、人を救う教会としておかしい。」

と言った。私は、キリスト教の中にこの制度があることは読んだことがあるが、その制度が、「おかしいかどうか」判断する根拠を持たない。ドイツなどは教会税として国家でそのような制度を維持していると聞いている。

 で、その後、彼女がもう読まないといったその教会のテキストを見ると、生活のこと細かいところまでしっかり守るべき事が書かれていた。確か、うちの中はいつもきれいに片付けておかなければならない、だとか、結婚式はこういう日を選びなさい、ということまで。

 よく考えたら日本にもあって、それは大安吉日というものだが、わたしはこのとき、
 「コレだ!!」
と思った。

 まだ学生の身の上で、10分の1とられるのは真っ平だったし、教義というとバチがあたりそうなので言葉を変えるが、

 「取るに足らない瑣末なことは、できるだけあらかじめ決めてしまおう。そして、それで節約した時間をたいしたことに使おう。」

という指針を立てた。そこで何を決めたかというと、

 たとえば下着を買うときに、何色にしようか、などというつまらないことで迷わなくてすむように、下着の色は白、と決めてしまおう。
 また、人の悪口は何があっても言わないでおこう。
 など、今思うと恥ずかしくて列挙できないこと多数。

 で、よし、これから、大切なことについてゆっくり考えよう、と思ったとき、考えるべきことがないことに気がついた。
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by mayumi-senba | 2005-05-24 23:53 | 自分のこと

反抗期

  私の両親は、息子がよちよち歩きのころから、
 「こんなに育てにくい子は見たことがない。」
と言っていた。私より育てにくかったそうだ。

 たいていわが子より孫の方がやりやすくなっているはずなので、しかも私よりということなので、相当なものだろう。

 言うことを聞かない。
 反対のことをする。
 とんでもない屁理屈をこねて黒を白という。
 すぐどこかにいなくなる。
 いなくなっても迷子になった自覚がなく、果てしなく遊んでいる。

 世間の人が反抗期と呼ぶ時期に入ったころには、私は息子にこう言っていた。

 「一生分反抗したんだから、もう反抗するな。」

  息子は学校で先生に叱られても、普通のボリュームだと叱られているという気がしないらしい。大きな声でしっかり怒りを見せないと、叱られているという気がしないらしいのだ。

 「やめなさい。」
 「やめなさいよ!!」
 「やめんかー!!」  

 で、最後あたりでやっと叱られていると気がつくくらい。

 どっちにしても、いつからいつまでが反抗期なのかはっきりしないまま反抗期は過ぎ、反抗期などというものが実はあったのかどうかわからない。
 おかげで私は子どもが反抗期であるということで悩んだことがない。
 悩まないといけないとしたらよちよち歩きのころに遡ることになる。
 反抗なんて日常茶飯事で慣れっこになっていた。


 神様はちゃんとつじつまが合うように按配してくれているものだ。
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by mayumi-senba | 2005-05-19 00:06 | 息子

尼崎の事故に思うこと

ちいさなサービス

 尼崎の事故は、日本の利用者の過剰な要求と、それ以上に過剰に応えようとする企業側の、何か強迫的な心理を感じます。

 利益をだせ。安全第一。その上、サービスをよくしろ。
 この三つを極限まで追求するシステムにすると、そこで働くものたちの心身は持たない。
結局安全は確保されない。

 安全について、どんなにマニュアルを作っても、そのマニュアルを利用する余裕がもてなくなる。また、マニュアルだらけになると、すべてがマニュアルどおりに動くことは困難になる。そうしようとすると、マニュアルに沿うことが目的になってしまって、本来の目的が見えなくなる。

 マニュアルにするべきものと、経験の伝承としてでしか伝えられないものとを見分ける必要がある。

 また、JR西日本のシステムはシステムとして、短時間にすごい本数を走らせなくてもよい  社会を作ろうという風に考える必要もある。フレックスタイムをもっと導入したほうがよいと思う.もっといいたいが、この辺でとどめる。

 それに、利用者個々は、遅れなく正確に発車するために、何が犠牲になっているかを想像する力を養う必要がある。目を見張るような業績の影には、無理なしわ寄せがあるものだ。日常の自分の職場環境など、身近なところから類推可能だ。

 ほかでいえば、たとえば・・・、 

 私は、ワンマンバスの運転手さんが、料金の確認をし、一人一人の乗客に、
 「ありがとうございました。お気をつけて。」
などといい、さらに行き先を告げる丁寧な場内アナウンスまでしているのを見ると、運転手さん一人ににここまでさせて平気でいる社会の鈍感さに不安を覚える。

 彼らには、安全運転にだけ集中してもらいたい。
 ぶっきらぼうで結構。できれば車内の安全に気を配る車掌さんを復活してほしいものだ。
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by mayumi-senba | 2005-05-16 01:39 | 世間のこと

ただ歩く。

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ここ
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by mayumi-senba | 2005-05-15 16:59 | その他

馬鹿も休み休み

憲法改正

 人間を不幸にしてきたのは、いつも、
 「アホな奴らを幸せにできるのは、この、カシコイ自分だ。アホは黙ってついて来い。」
と能天気に信じ込めるアホな輩だ。

 そして、みんな限りあるカシコで、限りあるアホなんである。
 アホでないカシコは一人とていない。

 たった一つ、確かなことがあると思う。

 縛りがいるのは権力だ。縛りがなければ、個人を権力で縛ることほどやさしいことはない。
 縛りがあっても、権力は個人を縛ることができる。それが有限になるだけだ。
 
 縛りがなければ人間は、「自分は賢い」と、どこまでも思い込むことが可能な生き物だ。
 いやというほど見てきたはずだ。
 
 権力は、人が握るものである限り、リバイアサンである。
 権力は、自分が賢くなったような気にさせるという副作用を起こす。またそうでないと権力は発揮できない。
 遠くを見なくても、じぶんを含めた身の回りの権力関係を見ればわかることだ。
 
 憲法に、「国民の責務」などという文言を入れようとは、馬鹿も休み休み言ってもらいたいものだ。

 「義務」ではなく「責務」だと・・・。
 すぐに、同じ意味になるのは目に見えている。
 そして、自分は賢いと思っているアホが、どこまでもおせっかいを焼くようになる。

 憲法は、権力を制限するものだ。
 それ以外のことは、憲法に縛られる法律ですむことだ。

 homeandhomeさん、同意です。
 
 

 

 

 
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by mayumi-senba | 2005-05-05 23:37 | 世間のこと

私の神様

私の宗教

 しかし、私の神様は、脱線事故や戦争や、収奪で、いとも簡単に人の命が奪われ、人が壊れていくのを、黙ってみている。

 
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by mayumi-senba | 2005-05-05 22:46 | 自分のこと

私の宗教

 神様の存在を意識したのは、隣のテニスコートの草むらから聞こえる虫の音だった。

 私にこの美しい調べを聞かせてくれるのは、神様がそこにいると考えなければどうにも合点がいかないのだ。

 もちろん、それが虫たちの求愛の唄であることは知っている。しかし、求愛なら虫のメスにだけ聞こえる波長でよいし、人間にとってもっと不愉快な音であってもよい。
 神様がいると考えないと、腑に落ちない。

 ならばその神様はどういう存在なのか、キリスト教の神様でもヒンズー教の神様でも、イスラム教の神様でも、そして恵比寿神社の神様でも間尺に合わない。

 親鸞の説く阿弥陀如来が一番近い感じがする。

 しかし、私の神様はもっとシンプル。

 なんか知らないけど、そこらじゅうにいて、どこにもかしこにも満ち満ちていて、私を生かす。
 「楽しいことがあるんだから、苦しみも悲しみもありだよ。」
と声にならぬ声でささやきながら、迷い、悩み、己の卑小さをかみ締める私を、そのまま生かす。

 決して、教え諭したり、その状況からわかりやすく救ってくれることはない。
 ただ、慈しみ愛してくれる。その証拠のひとつが、虫の音だ。

 「死んだらどうなると思いますか?」
と問われ、
 「息子と孫の心配はあの世でするけど、その先はいなくなる。」
と直ちに答えた。

 身の丈ほどの、わがまま勝手な、これが私の宗教だ。

 
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by mayumi-senba | 2005-05-05 22:19 | 自分のこと

 子どものころから、眠りに着く前、暗い中で目を閉じると、瞼のうらかわに人の顔が見える。
 
 幼い子どもがあどけなく笑う顔であることもあるが、多くは、世もなく悲しむ顔、苦しみもだえる顔、恐ろしいほどの恨みや怒りが漲る顔。鬼の顔だ。

 刻々と表情は変わり、さらに、さっきまで老婆だった人が、若い女性になり、老人になり、と、別人になっていく。

 恐ろしい顔ばかりだけれど、不思議と怖くない。
 今の顔を覚えておくことができたら、書き残してみたい、という衝動だけが沸き起こる。

 あわてて明かりをつけ、紙に書きつけようとすると、砂絵が風に吹き消されるように消えていく。

 子どものころから、この人々の顔は、私の脳が創っているのだということを感覚的に知っていた。

 また、私の脳の情動をつかさどる部分は、怖いという反応を示さず、すなわち、何とかしなければという反応を引き起こさず、
「これほどの表情をする悲しみやつらさとはどんなものなのか。」
などとぼんやりと考えていた。

 瞼の裏に見える感じすらも作られていることだ。
 脳みそというのは面白いことをするものだとも思っていた。

 あのような表情がふさわしい出来事は、地獄にあるのではなくこの世の中にあることを知り、そしてそのとき人は鬼になることも知った。
 私の瞼の裏の人たちは、昔の人が鬼と呼んでいたものだ。

 鬼は人の中にいることを、みんな知っていたに違いない。


 
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by mayumi-senba | 2005-05-02 12:47 | 自分のこと