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日本のあちこちに中国がいる。

 近頃、GYAOで雍正王朝にはまっている。

 ストーリーも面白いが、背景のディテイルをみると、日本が受けた影響の大きさがつくづくとわかる。欧米をはじめ、アジア以外の国々の人が、日本を中国の一部という見方をするのも宣なるかな、である。

 ヨーロッパの小さな国について言えば、私たちだってそんなものだ。

 私は子どものころから、日本は独特の国であるということを何度聞かされたかわからないが、それは親によく似ているといわれ続けるく子どもが、
 「自分は親に似ていない」
と言い張るもののようにも思える。
 違うといえば違うが、似ているといえばものすごく似ている。

 たぶん関西圏以外の人には、神戸、大阪、京都、和歌山、などの言葉の違いが判らないと思うが、われわれにはわかる。違う。

 別に今中国に暮らす人たちが私たちより偉いわけではないけれど、もちろんわれわれが偉いわけでもないけれど、
 「日本文化は中国文化に相当お世話になっている。」
と言ってもいい。

 
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by mayumi-senba | 2005-11-30 00:26 | 世間のこと

子どものとき

 人は人として生れ落ちたときに、出来ることが4つある。

 泣くこと。吸い付くこと。抱きつくこと。そして、笑っているのかどうかわからないような妙な笑い顔。

 非常に雑駁な言い方をするなら、その後に出来るようになるすべての大元はここにあると言ってもよい。

 たとえばこの中でいえば、あいまいな笑いが子どもに見られたときに大人たちが嬉しくて笑う。それを見て赤ん坊は徐々に「笑い」 が上手になる。それを見た大人が嬉しくて笑う。赤ん坊はまた上手になる・・・・、というようなことで、天使かと思えるような笑いへと発達していく。

 あの、見たものが何らかの関わり、もっと言えば保護をせずにはいられなくなるような笑顔となり、その後、嬉しさを表現する笑い、面白さを表現する笑い、照れ笑いなど、その場に応じた笑いへと進化を遂げる。それには周囲の大人たちの承認を受けながら調整されることが必要となる。
 「面白かったねー。」
と言うようなことである。場面にふさわしくなければ、大人たちは無意識にその反応はおかしいなというサインを出している。

それは、今感じている感情の正体を、誤差なく心が認識するのに必要な発達過程だ。

 で、「不快」について言えば、これもやはり、どのように「不快」なことなのか。
 痛いのか、寒いのか、暑いのか、何かを失って悲しいのか、思い通りにならずに腹が立つのか。怖いのか。
 このようなことを、心が、もっと言えば脳が誤差なく認識できるようになるにも、やはり同じ過程が必要となる。

 「怪我したの。痛いね。」
 「風船が割れちゃったの。悲しいね。」
 「寒い、寒い。」

 こんな言葉をシャワーの様に浴びることで、自分の不快感を仕分けしていく。

 この段階をとばして、
 「泣くな。」
 「我慢しろ。」
だと、自分の中に起こっている不快感の正体があいまいなまま押さえ込まれることになる。
 
 それは痛いということなんだけど、きっと直るから怖がらなくてもいい。だから今は我慢しよう。
 それは寂しいと言うことなんだよ。寂しいね。
 寒いね。寒いから、お洋服着よう。
 怖かったね。でももう大丈夫。

 子どものときにしっかり子どもの時代をすごさないと大人になれない
ということが言われるが、翻訳するとこういうことになると思うのである。
 だって、禅問答のようで、あまりにもわかりにくい。

 でも、これは前半。それに書いちゃうとこぼれ落ちる事もあるけれど、子どもを生む可能性のある人へのお節介です。

 長い翻訳です。
 
 

 
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by mayumi-senba | 2005-11-25 23:55

投げてやろうか

 息子がまだ小学生のころ、テレビから、アニメの主人公のような声で、
 「こどもを殺したいと思ったことがあります。」
というようなことを言っているのが聞こえた。顔にボカシが入っているが、聖子ちゃんカットで、ピンク色のフレアスカートをはいている女性が映し出されていた。

 その時たまたま息子がそばにいて、
「母さん、信じられないな。自分の子どもを殺すって。」
と言った。
 
 「母さんは、ベランダから投げてやろうかと思ったことがあるよ。」
と答えると、息子は絶句してしまった。嘘ではなかった。

 以前にも書いたが、本当にいつまでも起きている赤ん坊で、私は毎日極度の睡眠不足。
 しょうがないので真夜中にドライブに連れ出すと、その間寝ているがうちに着くと起きて
 「遊ぼう。」
と言う。
 そんなときには、 
「投げてやろうか。」
と思う。思うがもちろん投げない。思うことと実行することの間には大きな距離がある。

 一瞬そんなことを思うのと、息子がかわいくてたまらないということとは、ちっとも矛盾しない。

 私は、人間としても、母親としても、さほど我慢強いほうではなく、思慮深いほうではない。
 そんな私が、それでも、息子がかわいい。努力してかわいいわけではない。
 いったん寝ると、何があっても起きなかった私が、隣に寝ている息子が動いたり、子猫のように「にゃあ」とないたりするだけで眼が覚める。私はそれだけでも自分に驚いていた。
 どんなに疲れていても、保育園のお迎えに行くときの嬉しさはかわらなかった。
 でも、母親も人間なんだから、腹が立つことは腹が立つ。
 ときに「投げてやろうか」って思ったからと言って、別に驚くことは無い。実際に投げることは無いんだから。
 
 そんなことを、私は小学生である息子に言った。
 理解できるかどうかということはあまり考えなかった。
 息子はとにかく、何も言わなかった。
 そんなことがあったことを、覚えているだろうか。
 
 
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by mayumi-senba | 2005-11-23 23:23 | 息子

ストローで吸うもの

 体調不良からやや回復。少しとばします。

 ちょっと口にするのは気が引けますが、しかし言って言えなくもない、関西にこんな言い回しがあります。いや、多分あると思います。(私の周りだけだったらどうしよう)

 「どたまカチ割って、ストローで血ー吸うたろか。」

 (あなたの頭を何かで切り開いて、あふれ出る血潮をネクターのごとくストローで飲み、味合わせていただいてもよろしいですか。)

 生きていると本当に腹の立つことがあります。かといって解決策があるわけではありません。解決策があるくらいのことなら腹も立ちません。
 とにかくどうにもならないけど怒りがこみ上げてくること。どうにかしようと思えば出来なくもないけど、支払う代償があまりにも大きく、また取り返しがつかないようなこと。

 そんなときに、ちょっと小さな声で口にするとよい言葉です。

 人は言葉を吐いているとき、必ず視覚化しているのだそうです。確かに、想像しています。かなりデフォルメされていて、たいてい赤塚富士夫の漫画のタッチになっています。

 だいたい、血などというものは長ネギやしょうがで思い切り臭みを消さないと口に出来たものではありません。ましてや、生のものなど、臭いを嗅ぐだけでも拷問に近いものです。そんなことしたいはずが、もちろん言うまでもありませんが、絶対にありません。

 けれども、怒りは怒りとして、とりあえず怒っておくための儀式として、相手のドタマを赤塚富士夫風に「カチ割る」と口にしてみる。
 口にするとその像が脳の中で形成される。
 
 実際に実行するよりは数段高度なガス抜き法です。
 実害が、無いこともないですがあまりありません。聞かれてしまったらちょっと「下品」と思われるだけです。些細なことです。
 怒りが無かったことにするよりも、よほど健康にいいと思います。

 誰に向かって言っているんでしょうか。

 「健康と美容」にトラックバックしよう。
 


 
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by mayumi-senba | 2005-11-21 21:51 | 恥ずかしいこと

旅行中

 息子がどこかに旅行に出かけているらしいのでこの隙に書きますが、彼のブログが面白いんです。

 公開してるんだから文句はないだろうと時々覗いて見ると、誤字脱字、変換ミスのオンパレードですが、言いたいことはよくわかるし、さすが親子なのか、笑いどころのツボが同じで飽きません。

 赤ちゃんのころ、夜中まで遊んで寝ないために私を極度の睡眠不足に陥らせたことも、大きなうんちをするとそれが嬉しくて自慢らしく、
 「うんち見てー。」
って見るまでしつこく言ってたことも、許せてしまいます。

 それにしても、いったいどこに行ってるんだろう。

   ・・・・・・・・・・いまだに寝不足をちょっと根に持っている母

 
 
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by mayumi-senba | 2005-11-21 21:04 | 息子

餅と猿

ある人のお兄様とその御長男は、お正月の三が日、お餅ではなくそばを食べるのだそうだ。
 その家の歴代当主はずっとそのしきたりを守ってこられたとのこと。
 18代目になるらしい。
 
 いわれは、
 「お正月にお餅を食べていて戦に破れたから、歴代の当主はそのことを忘れないために。」

 ちょっとスケールが違う話だが、私の実家では、祖父母をはじめ、彼らの子孫である一族郎党はすべて、
 「猿」
という名詞を口にすることを許されなかった。

 猿蟹合戦は、声に出して読むことが出来ない。
 自宅ではまず話題に上ることがなかった。
 学校でも、
 「私はこれを口にしてはいけないことになっています。」
などといっていた。どうしても話題にしなければならないときは、
 「さがつく動物」
とか、もう少し成長すると、
 「ほら、毛が3本足りないやつ」
などと回りくどい表現をした。もちろん不自由だった。

 なぜそんなことになったのかというと、
 祖母が息子の一人を亡くしたその日に、猿のことを話していたからだそうだ。
 それ以来、
 「猿ということを口にすると恐ろしいことが起こる。」
と祖母は思い込み、祖父や父たちはそのばかばかしさを口にすることなく付き合ってきたのだ。
 私たち孫の代になると、親たちは
 「ばかばかしいけど付き合っている。」
ということは私たちに伝えず、
 「とにかく口にするな。口にすると恐ろしいことが起こる。」
とだけ言うものだから、祖母の孫である私たちは不審ながらも口にするのを憚ってきた。
 そのうちだんだんそのことを楽しむようにもなった。

 人は、自分におきた不幸を受け入れるために、時にばかばかしく、悲しいほど果に対する因を必要とする。そのことが、何代か後には、ばかばかしいながらも、よそのうちとは違う、ということを楽しんでしまうようなしきたりになる。そんな例はそこここにあるだろう。

   あの祖母だって、本気で「猿」と口にすると恐ろしいことが起こるとは思っていたとは思わない。つらい思い出と結びついたことばで、かろうじて持ちこたえている自分の気持ちが崩れるのを避けたかっただけだ。
 
 人は、どんな時でも生きることを遊んでいる、悲しみも味わっていると私には思える。

 
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by mayumi-senba | 2005-11-16 23:56 | 世間のこと

嫌いなこと

 連帯責任。
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by mayumi-senba | 2005-11-07 22:45 | 自分のこと

試さずにはいられないです。

ここ

 ホントでした。

 追:直しました。Konomiさん、小鳥さん、失礼しました。
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by mayumi-senba | 2005-11-03 17:41 | その他

父の後悔

  マザコン気味の父は、いわゆる遊び人だった祖父のためになかされた祖母の姿を見ていたので、祖父とはずっと折り合いが悪かった。ということになっていた。

 その父だって、世間で言うと立派な遊び人に入るのであって、いろんな遊びのほかにも、子どもである私たちすら女の人の影を感じていたものだ。

 さらに言えば、祖母が祖父のために泣かされた、ということは何回聞かされたかわからないが、
 「おばあちゃんが~?」
という感じでリアリティはまったく感じられなかった。

 祖父は祖父で、あるときから運転をぱったりやめたと思ったら、どこに行くにも自転車で、冬には耳あてとダッフルコートという小粋ないでたちで出かけた。
 時々わけのわからないものを買ってきて私たちに食べさせてくれたが、あくまでも自分が食べたいので買ってきて、ついでに孫にもやる、という感じだった。
 気分が乗ると、都都逸が出る。
 そんな、生きていることを楽しんでいることが子どもにも伝わってくる感じの楽しい爺さんになっていた。

 なもので、父と祖父の折り合いの悪さは私たち子どもにはさっぱりわけのわからないことであった。

 そんな祖父が亡くなってから、父が漏らしたことがあった。

 「親父に冷たくあたっていたことを後悔してるよ。」

 私は、父のこんな形の「後悔」が嫌いではない。

 ある種の後悔は、不遜な言い方をすれば、人間にだけ与えられた味わい深い、形容しようのない心の動きだ。
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by mayumi-senba | 2005-11-03 17:10 | 自分のこと

お疲れすぎです。

 職場の挨拶のひとつに、

 「お疲れ様です。」

というのがありますが、近頃私は、こういってもらいたい気分。
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by mayumi-senba | 2005-11-03 13:23 | 世間のこと